新小川町遺跡3次調査
画像数:5枚
所在地 | 新小川町4番地 |
ふりがな | しんおがわまちいせき3じちょうさ |
種別 | 埋蔵文化財包蔵地 |
年代 | 縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世 |
備考 | ※記録保存:発掘調査報告『新小川町遺跡Ⅲ』2018テイケイトレード㈱他 |
概要 | 新小川町遺跡は、新小川町一帯に広がる江戸時代の遺跡である。 平成28(2016)年2月から6月に行われた2次調査(新小川町4)では、江戸時代初頭~前葉の水田、17世紀中葉以降の旗本屋敷跡が確認された。 江戸時代の地誌によれば、大曲付近には往古、白鳥池という大沼があったが、低地が埋め立てられ武家地となる様子が発掘調査によって明らかとなった。最下層では、17世紀初頭を下限とする水田跡が広範囲で確認されたが、17世紀前葉には一部に井戸や溝、小規模な建物が設けられる。付近は将軍秀忠、家光の側近、大橋龍慶の拝領地にあたることから、これらは龍慶町に関わる遺構と推定される。また前後して、東側に排水目的と考えられる大溝が設けられる。17世紀中葉には、ローム土を用いた大規模な盛土により地表面が0.6~1.0m嵩上げされる。『御府内備考』には筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたとあり、造成後には神田小川町の武家屋敷が移されたため、俗に新小川町と呼ばれる。この場所には、万治~寛文年中(1658~1673)には、禄高250石の旗本野呂家が506坪の屋敷地を拝領し、以来維新まで居住している。丹念な調査により、旗本野呂家に関わる建物、井戸、池、土蔵跡等が時代を追って捉えられ、これまで事例の少なかった区北東部の旗本屋敷の様子が明らかとなった。 |