東京監獄市ヶ谷刑務所刑死者慰霊塔

  • 東京監獄市ヶ谷刑務所刑死者慰霊塔

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所在地 新宿区余丁町4-20 富久町児童遊園     
ふりがな とうきょうかんごくいちがやけいむしょけいししゃいれいとう
点数 1基
種別 慰霊碑
年代 昭和39年(1964)
所有者
アクセス 都営大江戸線「若松河田」駅から徒歩9分、都営バス「余丁町」バス停から徒歩7分
備考 日本弁護士連合会が建立
概要  現在の都立総合芸術高校を中心とした一帯には、明治36年(1903)に東京監獄が設けられた。その前身は明治3年(1870)に鍜冶橋門に未決囚を収容する監倉事務取扱所で、その後鍛冶橋監獄署と改称し、東京監獄と改称して市谷富久町に移転した。大正11年(1922)には市谷刑務所と改称したが、次第に宅地化した地元の要請で、昭和12年(1937)に巣鴨刑務所の跡地に移転し東京拘置所となった。
 当初、未決囚の収容を目的としたが次第に既決囚も収監し、明治44年(1911)には幸徳秋水ら大逆事件の死刑囚の処刑も行われた。この慰霊碑は、昭和39年(1964)7月に日本弁護士連合会が建立したものである。
 監獄の北、余丁町に住んでいた作家・永井荷風は、「監獄署の裏」(明治42年)という作品を書いている。