鏑木清方旧居跡

  • 旧居跡に隣接する新宿区立矢来公園
  • 矢来公園に建つ文化財説明板

画像数:2枚

所在地 新宿区矢来町38-3     
ふりがな かぶらききよかたきゅうきょあと
種別 新宿区指定史跡
年代 大正15年(1926)~昭和19年(1944)
指定・登録年月日 令和元年(2019)6月3日
所有者 個人
アクセス 東京メトロ東西線「神楽坂」駅より徒歩6分
備考 ※文化財説明板は隣接する新宿区立矢来公園に建つ
概要  この地は、日本画家・鏑木清方(1878~1972)が、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで暮らした住居、通称「夜蕾亭」の跡である。
 清方は、本名を健一といい、明治11年(1878)に、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の創設者である條野採菊(1832~1902)を父として、東京神田に生まれた。13歳の時に浮世絵の流れを汲む水野年方(1866~1908)へ弟子入りし、17歳の時にはじめて新聞に挿絵が掲載されて以降、新聞や雑誌を舞台に、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。挿絵の仕事の傍ら、様々な流派の青年画家が集う烏合会展覧会へ作品を出品し、画力を磨いた。明治40年(1907)に開設された文展では、「霽れゆく村雨」(大正3年)で二等賞(最高賞)を受賞し、一流画家の仲間入りを果たした。矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃借し、のちに購入。昭和7年(1932)には、懇意の建築家吉田五十八(1894~1974)へ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家で、代表作となる「築地明石町」(昭和2年)を制作し、帝国美術院賞を受賞した。そのほか「三遊亭圓朝像」(昭和5年、重要文化財)や「一葉」(昭和10年)等、絵画史に名を残す名作を多く制作した。
 清方は、忘れ去られた時代の風俗を、流麗な筆遣いで描き、人気を博した。矢来町に居住時は、画家としての成熟期にあったのみならず、官展を含む諸々の展覧会で審査員をつとめ、展覧会運営の立場からも深く美術界の動向に関与した。この地は近代日本画家を代表する鏑木清方が、その成熟期を過ごした旧居跡であり、近代絵画史上重要な史跡である。