鈴木三重吉終焉の地(「赤い鳥」社跡)

  • 鈴木三重吉終焉の地(「赤い鳥」社跡)

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所在地 新宿区歌舞伎町2-23-12 チェックメイトビル     
ふりがな すずきみえきちしゅうえんのち(「あかいとり」しゃあと)
種別 新宿区指定史跡
年代 昭和4年(1929)~昭和11年(1936)
指定・登録年月日 平成29年(2017)3月29日
所有者 株式会社チェックメイト
アクセス JR、小田急線、京王線、東京メトロ、都営地下鉄「新宿」駅から徒歩12分
概要  小説家・児童文学作家の鈴木三重吉(1882~1936)が、昭和4年(1929)から昭和11年(1936)6月27日に亡くなるまで暮らした住居の跡であり、児童文芸雑誌『赤い鳥』の編集・出版を行った「赤い鳥」社の跡である。明治15年(1892)に広島市猿楽町に生まれた三重吉は、中学校在学中より創作活動を行った。東京帝国大学英文科で夏目漱石(1867~1916)に師事し、生涯の師と慕った。漱石の推薦を得て「千鳥」が『ホトトギス』に掲載されて以降は、漱石門下の一員として、漱石宅での「木曜会」に参加した。長女が生まれたことを契機に、児童文学作品も手掛けるようになり、従来の教訓的なお伽噺や学校唱歌に不満を持っていた三重吉は、大正7年(1918)に『赤い鳥』を創刊し「芸術として真価のある綺麗な童話と童謡を創作する、最初の運動」として位置付けた。『赤い鳥』には、芥川龍之介(1892~1927)・北原白秋(1885~1942)・島崎藤村(1872~1943)らの作品が寄せられ、坪田譲治(1890~1982)・新美南吉(1913~1943)ら新たな児童文学作家を世に送り出した。『赤い鳥』は18年間にわたり計196冊を刊行し、学校や地方の青年会などで輪読され多くの青少年に影響を与えた。
 三重吉の新宿時代は、児童文芸雑誌『赤い鳥』が休刊から復刊し、三重吉の逝去に伴い終刊する、晩年の7年間にあたる。三重吉は、師・漱石の没後に『赤い鳥』を創刊し、芸術性を取り入れた児童文学運動を展開した。三重吉の運動には、すぐれた文学者と芸術家が参画し、多くの子ども達に芸術性と文学への親しみを植え付けた。また、児童文学・芸術に携わる多くの作家・児童文学者や芸術家を育成した。数多くの大正期児童文学の名作を生み出した『赤い鳥』は、日本の近代児童文学の出発点であり、その後の礎となる記念すべき雑誌である。この地は、近代児童文学・童謡の発祥・発展の地として、文学史上、教育史上の重要な史跡である。