西條八十旧居跡
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所在地 | 新宿区北新宿1-23-2付近 |
ふりがな | さいじょうやそきゅうきょあと |
種別 | 新宿区指定史跡 |
年代 | 昭和10年(1935)~昭和19年(1955) |
指定・登録年月日 | 平成28年3月4日 |
所有者 | 個人 |
アクセス | JR中央・総武線「大久保」駅 東京メトロ丸ノ内線「西新宿」駅から徒歩7分 |
概要 | この地は、詩人・作詞家・仏文学者西條八十(1892~1970)が昭和10年(1935)4月から昭和19年(1955)1月まで過ごした場所である。東京市牛込区牛込払方町18番地に当時石鹸製造業を営んでいた西條家の三男として生まれた八十は、旧制早稲田中学在学中より詩人を志す。大正4年(1915)に早稲田大学文学部英文科を卒業後は英語雑誌『英語の日本』の発行に関わりながら作詩を行い、同8年(1919)第一詩集『砂金』を自費出版し、詩人としての地位を確立した。また、鈴木三重吉(1882~1936)の『赤い鳥』に童謡を発表し、北原白秋(1885~1942)と並ぶ童謡詩人としても活躍した。11年(1922)から淀橋町柏木433番地に居を構え、早稲田大学で教鞭を執るかたわらパリに留学。帰国後は詩人として大正詩壇に象徴詩時代をつくった。昭和初期より歌謡曲の作詞も手がけるようになり、作曲家の中山晋平(1887~1952)とのコンビで「銀座の柳」「東京音頭」など数々のヒット曲を生み出し、昭和9年(1934)には新宿を題材にした「新宿音頭」の作詞も行った。同10年(1935)4月、柏木三丁目377番地に転居した八十は、映画の主題歌と歌謡曲の作詞で活躍し、「東京ブルース」「蘇州夜曲」など、古賀政男(1904~1978)・服部良一(1907~1993)・古関裕而(1909~1989)らの作曲によりヒット曲を量産した。またこの時代、軍歌の作詞等、戦時体制に関わる活動も行った。昭和19年(1944)1月茨城県下館町に疎開、戦後は世田谷区成城に居を移し、「青い山脈」等の作詞を行った。 西條八十は、新宿生まれ、新宿育ちであり、下館に移る昭和19年(1944)まで約22年間、当時の淀橋区柏木に居住したほか、牛込払方町や大久保百人町など、78年の生涯のうち約50年間を新宿で過ごした。柏木時代の八十は、詩人として仏文学者としての地位を確立していたが、これに加え八十の名を国民的なものとした童謡、歌謡曲、映画音楽、校歌、社歌等、膨大な楽曲の作詞、音楽産業の確立・発展への寄与、取材や評論等、文学に留まらない総合的な文化活動を開始した時代であった。 |