下村湖人終焉の地

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所在地 新宿区百人町2-7-16 アゼリアコート     
ふりがな しもむらこじんしゅうえんのち
種別 新宿区指定史跡
年代 昭和6年(1931)~昭和30年(1955)
指定・登録年月日 平成26年(2014)3月26日
所有者 アゼリアコート管理組合
アクセス JR山手線「新大久保」駅から徒歩4分
概要 小説家・教育者・社会教育家下村湖人(1884~1955)が昭和6年(1931)から昭和30年(1955)4月20日に亡くなるまで過ごした場所である。
現在の佐賀県神埼市に旧鍋島藩士内田家の二男として生まれた湖人は、佐賀中学校在学中より詩歌や文学に興味を持ち、内田夕闇の筆名で文芸雑誌に詩歌を投稿した。第五高等学校から東京帝国大学で英文学を専攻し、卒業後は母校佐賀中学校の英語教師となり、その後、唐津中学校校長、台中第一中学校校長、台北高等学校校長等を歴任する。昭和6年(1931)に台北高等学校長を辞し、東京府豊多摩郡大久保町百人町に転居。同郷の社会教育家田澤義鋪の要請により大日本連合青年団(日本青年館)嘱託となり、社会教育活動に従事、小金井の同青年団講習所(浴恩館)所長にも就任した。昭和7年(1932)からは本格的な文筆活動に入り、翌年第一歌集『冬青葉』を出版。同11年(1936)から自伝的長編小説『次郎物語』の連載を開始し、単行本化されるとベストセラーとなった。戦時中も百人町で文筆活動を続け、戦後も『次郎物語』第四部・第五部や、田澤義鋪の伝記『この人を見よ』等を執筆した。
下村湖人の百人町時代は、20年間に及ぶ教員生活を辞し、社会教育家としての活動に身を投じるとともに、本格的な文筆活動を開始した時期にあたる。まさに小説家下村湖人誕生の地であるとともに、湖人の小説家・社会教育家としての全活動が、この地に住み続けながら行われた。居住期間は、戦時下も含め、亡くなるまで24年間に及び、その間、代表作であり、戦前から戦後まで、児童小説・教養小説として読み継がれた『次郎物語』全五部を中心とした多くの作品が執筆された。
 下村湖人が、その後半生を過ごした場所として、代表作『次郎物語』全五部を執筆した場所として、地域史・教育史・文学史上重要な史跡である。